2011年6月 宮城県仙台市若林区・南三陸町福興市

ここにもクローバーの野原。

ずっと気になっていた地へ勇気を出してやってきました。

 私の中の何かがすーこし変わった気がした旅。

帰ってきてから1週間たったけれど

伝える言葉がなかなかみつからない。

震災直後は、

「私にできることは、家族の安全を衛ること。

自分の仕事を全うすることが被災地への間接的な支援になるから」

と、ささやかな募金や家で眠っていた児童書を寄付していました。

 

米軍や自衛隊、各国のレスキュー隊だけではなく、

僧侶や心理カウンセラーの常駐するような状況で私が行っても

役に立つどころか迷惑をかけてしまいそう。。。

プロに任せるべきだって。

 

仕事にも気持ちにも少し余裕が戻って友達と出かけられるようになった頃、

1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の時に神戸在住だった友から

報道で大きく取り上げれられている地域には、ボランティアも多く集まるけれど

そうでない場所は取り残されてしまう、と聞きました。

 

卒業してすぐに新潟に戻った友達が2004年(平成16年)に被災したときも

メールで安否を確認することしかできなかった。  

そんなこともあり、ゴールデンウィーク前後に栄さんとお会いした際に、

ボランティアツアーでの体験談をお聞きして

「6月の母の十三回忌を終えたら私も行きたい。次に行かれる時は声をかけてくださいね」とお願いしていました。

 

十三回忌での法話のなかで、お寺が避難所になっていること。

永平寺の先輩のお寺にお手伝いに行かれたときの話、

「なかなか行けない状況の方も多いとは思いますが

「行ける人は(東北にボランティアに)行ってください)

との言葉にも背中を押されての今回の参加となりました。

 

東京駅から出発した夜行バスが宮城県に入り、

寝ぼけながら添乗員氏の説明をぼんやり聞いていると

「この先、バス右手の景色が茶色に変わります」との言葉。

低血圧も覚醒する風景。

 

反射的に「海はどこ??」と瞳をこらして、気付いたのが

はるか地平線の防風林。

一列につづいているはずの松の木が、欠けているのは

根こそぎ流されて目の前にあるからなのね。

 

海とのこの距離感は、横浜で日々を過ごす身には

心の底から「他人事ではない」との慄き。

勤務先は目と鼻の先が海のため、

3月11日には、津波の危険に備えて刻々と変わる水位を警戒していたから。

  

川べりにあった母の生家は、豪雨のたびに水害を受けていたそうです。

嫁いだ先も多摩川にほど近く、私が生まれた家も昭和49年の氾濫では

床下浸水になりました。

 

のちに今の実家の場所へと引っ越しましたが

水の恐ろしさを知る母が選んだのは坂の途中の住宅街。

私が引っ越すときも、母に耳にタコができるほど

「地名に"水"の要素がある場所はダメ」と注意されたため高台に住んでいますが

目の前がすぐ海、というロケーションに友人知人は多数。

  

仙台市ボランティアセンターで添乗員氏が受付を済ませる間のバス内で

現地ボランティアによる説明がありました。

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ボランティアの心得は、

最初から100%の力を出さないこと

100%で動き出してしまうと、何かあったときに対処ができなくなるから。

不測の事態が起こった時に、とっておいたその20%を出せば

何とかしのげる。

 

笑顔を忘れないこと

笑顔がない人には笑顔を届けられないから。

辛そうな顔をして働いていたら、頼んだ方がつらくなる。

自分の為に、こんなに大変な思いをさせていると感じさせないよう

笑顔を忘れずに。

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うん、すごく説得力ある。

帰宅後に見つけたHPのインタビューでは、さらに

「医者とか何かの専門家とか職業的なプロの人たちが、それぞれの分野で活躍できることは確かだけど、そうじゃない人たちでも誰でもこの被災地では役に立つ。だって、食器洗いだとか、泥出しとか、荷物運びとか、とにかく、何もなくなってしまったこういう状況なんだから、どんなことでも必要とされているわけでしょ」

と語っていますが、ボランティア初心者には、とても心強かった。

 

その後、バスで地図上このあたりの岡田サテライトへと移動。

 

「畑を耕す作業です」「腰までつかって水路清掃の仕事です」などなど

次々と志願者が募られ、私たちは「女性4名」と募集され

ふたたび車での移動となりました。

 

車中で告げられた作業内容は、若林区の個人宅で泥出し。

被災地の中心から離れ、行政区のはざまで3か月間手づかずとなっていた場所でした。

阪神淡路大震災を経験した友が語ったとおりだった。

 

そのお宅は、海岸線の防風林を臨み、そこから続く田畑に隣接する住宅地のうち、

もっとも海に近い位置にある大きな農家。

その家の「おとーさん(と、私たちは呼んでいた)」が

現在避難している"会社(民家を利用した事務所)"から週末ごとに通い

独りで作業していたそうですが、やっとボランティアを依頼する先がわかったので

私たちが派遣されることになりました。

 

 

家の中には一面に厚さ30cmほどの泥と松葉、松かさ。

既に作業に入っていた男性5名と、私たちのツアーから女性4名で作業をはじめましたが

1からの作業なのでとてもとても人手が足りない。

地元のボランティアや、3度め、2度めの人たちは器用にスコップを使いますが

私はぜんぜんダメ。。。。

できることをやろう!と方向転換して、スコップの達人の横で

「ネコ」と呼ばれる一輪の手押し車でひたすら土砂を運ぶ作業。

ほどなく応援で7名が到着し、スピードアップ。

 

次々と割れた建具がはずされ、じっとりと湿気をおびた畳を運びだし

床が見えてくると、切なさとともにやり甲斐を感じるけれど。

 

泥の中から覗く年賀状の束、家族写真

携帯電話の数々、請求書やハンドバック

衣服やアクセサリーの数々・・・・・

それらのものを丁寧にとりわけ、

ボランティアの依頼者である「おとーさん」に託します。

  

 

 

カメラは持っていたけれど、とてもそんな気にはなれなかったので

その作業の写真はなし。

現地で足りないものがあれば、必要な道具はすぐに

ボランティアセンターから取り寄せられるようになっていました。

 

ボランティアは日本各地はもちろんのこと、外国人も多く、休校になった地元の大学の学生も多く参加していました。

一緒に泥かき作業をしていた中で、特に手際のいい青年は台湾からの留学生とのことでした。

定期的に手を休めて水分補給をする休憩での雑談で

台湾には徴兵制があること。

そのときに「こういうこと」を訓練していたので、手際がいいんですって。

なるほど~。。。

 

とても一日では終わらない作業。

地元のボランティアさんに「明日も来られますか?」と尋ねられたけど

「ごめんなさい。明日は別の場所に行くことになっているんです」

と答えなければいけないのが歯がゆくて。

 

帰りのバスのために、早々に作業を切り上げてサテライトへ戻ったけれど

他の班が戻るまでには、待ち時間がかなりあり

「うーーーーん、もう少し残って作業ができたのに!!」って悔しい。

 

でもま、しょーがない。

そういうツアーで来たんだもの。

明日は明日でベストを尽くそう。

 

バスは仙台駅へ移動し、夕食と翌日の朝食・昼食の買い出し。

おお、横浜駅よりずっと都会だ~。

 

 

 

 

 

 このあたりで、きれいな恰好で歩いているのは地元の人、

汚い恰好で歩いているのはボランティア、だそうです(笑)

 

駅近くハピナ名掛町の利久で乾杯!!

奮発して、牛タンを仔牛のものにグレードアップしてみたよ。

肉厚でおいし~のだ♡

労働のあとのビールも美味しくて箸は進むんだけど、

ふと、福島の立ち入り禁止区域内の牛たちのニュース映像が頭をよぎり

肉牛の命を全うすることは、きちんと食べることなんだって気付いた。

 

食べられちゃって可哀そう、申し訳ない・・・って思ったことはあったけれど

それは事実の一面でしかなかった。

 

改めて「いただきます」は「いのち・いただきます」の意味であると悟る。

 

 

翌朝5時に飛び起きて、宿泊地の秋保温泉を出発。

南三陸町へと向かいます。仕事だとこんなに早く起きられないのに不思議だ。

 

 

前日聞いたときはよくわからなかった地元のボランティアさんの

「南三陸は何もなくなっちゃった場所だから、ここ(仙台市)とは違った作業になるよ」という言葉の意味がなんとなく察せられてきた車窓の景色。

 

あ、ここニュースで見た場所だ。

11日の午後は、9日昼に起きた地震についての対策会議が行われていたそうです。

3階建ての屋上に避難した町長が、つかまって助かったというアンテナ。

2階では女性職員が最後まで避難を呼びかける放送を行ったという

南三陸町防災庁舎がここでした。

(津波のニュース映像はこちら)

  

一時停車したバスを降りると、感情がおしよせて胸がつまる。

反射的に「海はどこ?」と海岸線を探したけれど、見当たらない。

 

信じられない驚きだったけれど、風のにおいと湿度で、その方角が察せられたよ。

津波は八幡川を駆け上ってきたそうです。 

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見覚えのある、「おかあさんといっしょ」のキャラクター

じゃじゃ丸、ぴっころ、ぽろり

滑り台かな。小さな子どもがいたんだね。

 

 

 

 

南三陸町災害ボランティアセンターに到着

 

 

 

 

この日はツアーが二手に分かれます。

私が治が派遣されたのは、毎月最後の日曜日に開催される「福興市」。

「なるべく女性が」ということで、募金のお手伝いをすることになりました。

 

 

 

 

もう一方の班は写真展の設営。

そちらは、復旧作業中に発見された写真を洗浄のうえ展示する

写真展の設営作業だったそうです。

  

会場内で募金を呼び掛けていると

日本全国から集まってくるゆるキャラたち。

ボランティアも日本中から。

 

 

一緒に募金を呼び掛けていたのも、大阪から来たボランティアさん。

背中に「兵庫県」と記したジャンバーを着ていたのは公務員さんかな。

津波語り部さんの講演会進行は「高知県から来ました」という方だった。

 

もう3か月もたっているし

あまり集まらないかも?という予想に反し

「がんばってね」と、次々と寄せられる募金。

「入れてあげたいけど、私はもらう方なの」という方もいて切ないけど

とにかく大きな声を出す。

  

 

募金のお手伝いは予定より早く切り上げることになり

「残りの時間は”お金を使う支援”をしてください」ということに。

ゆるキャラたちがステージでAKB48になりきって「♪会いたかった~」

と歌う姿を観たり

  

地元のロールケーキを買ったり。

美味しそうなお肉でバーベキューができると聞いたので

前日パンを買ってあるけど、それはいいじゃん、ということにして

  

 

みんなでバーベキュー♪

他のテントから、焼きそばだの生ビールだの買ってきて

全力で”お金を使う支援”(笑)

どこへ行ってもこんなことばっかりしてる。。。

結局得意なことで、ひとの役にたてることって

これなのかも^^;

  

頼もしい自衛隊の方々。

この日解散式がありました。

  

写真展のグループも合流し、

ボランティセンターに寄せ書きを残してそろそろ帰途へつく時間です。

一度行ったら気が済むかと思ったけれど

ボランティアは一度では終わらないって知ったよ。

   

「人間っていうものは、このたいせつなことを忘れてるんだよ。

だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない。

めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。

まもらなけらならないんだよ。バラの花との約束をね・・・」

というキツネの言葉を思い出したよ。

内藤濯訳:サン=テグジュペリ作『星の王子さま』」

 

 

 

 

きっとまた来よう。

忘れないよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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そして、素晴らしい経験をする機会を与えてくださった栄さん、どうもありがとうございました。